「お墓」について

本来、インドの仏教では墓は不必要であった。

インド人は古来、火葬(荼毘(だび))を採用しており、仏教は火葬を当たり前のこととして採用した。

火葬というものは、ほんとうは、いっさいの遺体をなくしてしまうのだ。  
             
インド人は焼け残った骨をすべてガンジス河に流した。

だから、墓をつくる必要がないのである。

ただし、例外は釈尊(しゃくそん)である。釈尊のように、悟りを開いて仏陀(ぶっだ)となった人の墓は、つくってよいのである。凡夫の墓はつくってはいけないとされている。

※仏陀の「仏」は、昔は「佛」の字を使っていた。このつくりの「弗」はじつは「あらず」という意味であり「佛」とは「人にあらず」ということを表していた。サンスクリット語の“ブッタ”の音を「仏陀」と漢字に写しとったもので本来は「目覚める」という意味である。

お釈迦さま(釈迦牟(しゃかむ)尼(に)世(せ)尊(そん)=略して釈尊という、紀元前6~5世紀の人)は35歳のときに、菩提樹のもとで悟りを開かれ、真理の世界に目覚められた。その時、お釈迦さまは人間を卒業されたのである。仏教は本来、教理的には祖先崇拝を認めない立場であった。

というのも、仏教は六道輪廻からの解脱、離脱を理想としたので、いわば永遠に存在する霊魂の存在を否定する(というより問題としない)立場をとっていたからである。したがって、それを対象とする儀礼も存在しなかった。

このように「仏(ほとけ)」とは本来「真理に目覚めた人」のことをいったので、死んだ人のことをいったのではない。仏教とは「仏の教え」ということになる。

わが国での火葬は、文武天皇の4年(700年)、道(どう)昭(しょう)という僧侶が遺言によって火葬されたのが始まりである。宮廷では大宝3年(703年)持統太上天皇の葬儀が火葬で行われている。火葬が一般的になったのは、7世紀後半から8世紀で各地に一定の火葬場を設け、これを「三昧所(さんまいじょ)」といった。

さて、日本では、伝統的な葬法は土葬であった。

土葬の場合は、死体に対する恐怖の感情が抜きがたくある。近年になって日本では火葬が普及した。しかし、日本はインドとちがって遺骨を残す火葬である。

本当は遺骨を残さずすべてを焼き尽くしてしまえばいいのであるが、土葬の習慣のため、遺骨を残して墓に埋めないと日本人は落ち着かないのである。

それでわざわざ遺骨を残して墓に埋葬する「しきたり」になった。

インドでは、死者は西方(さいほう)十万(じゅうまん)億土(おくど)のかなたに存在する浄土におもむくと考えられた。

日本人の伝統的な死後の世界観では、死者が死後に行く世界は「黄泉(よみ)の国」とよばれ地下にあるとされた。

ほかに「常世(とこよ)の国」とよばれる海上他界や山中他界もあるが、日本人にもっとも強烈な印象を与えているのは、地中他界である。そこで遺骨を墓の下に埋葬することが、死者を葬るにはいちばん適した方法のように思われている。

こうして縄文的なカミの信仰、あるいは万葉人的な霊魂信仰が新来の浄土信仰(仏教)と融合して死者=魂(たま)=仏(ほとけ)という観念連合が成立し、死者(あるいは死者霊)をそのままホトケと称する民俗仏教が人々の心をとらえるようになった。

もう一つ、この死者=ホトケ信仰の形成にとって重要なはたらきをしたのが、遺骨信仰である。

十一、二世紀になると、高野山に遺骨(遺髪)を納めたり、氏寺に遺骨を納めたりすることが貴族社会ではやりはじめ、しだいに庶民に遺骨を寺に納める風習が定着していったとみられる。それまでは、遺骨は死体の一部として死穢(しえ)の発生源の一つと考え、死体とともに忌避するのが普通であった。すなわち、鳥(とり)辺(べ)野(の)、蓮台野といった葬地に土葬あるいは風葬し、それ以後葬地にいくことはまれで、参拝や追善供養は詣(まい)り墓(ばか)という石塔などを近くに立てた地で行っていた。

すなわち、遺骨もその一部である死体にたいしては、恐怖や穢れ感を強くいだき、忌避しようとしていた。

こうした遺骨にたいする対応の変化の背景には、浄土教の流行と来世信仰の広まりがあると考えられている。また、高野(こうや)聖(ひじり)によって浄土である高野山への納骨を勧めることがおこなわれ、高野山へ納骨がなされるようになったことも一背景として考えられる。

遺骨を霊魂の依り代として考え、穢れた埋葬地から寺や浄土とされた山岳霊場へ運ばれたのではないか。

【墓 地】;土地ではなく使用権を買うもの墓はどこにでも建てていいというものではない。

たとえ、自分の家の庭であってもまず許可されない。

「墓地・埋葬等に関する法律」にもとづいて公に墓を建てるための場所と認められている一定の区域を「墓地」という。

最近は「墓園」「霊園」という言い方もよく使われいる。

管理者の違いによって「境内墓地」「公営墓地」「民営墓地」の3つのタイプに大別される。

いずれのケースでも誤解してはならないのは、あくまで「永代使用権」を得るということで、その区画の土地を買ったのではないということである。

【お 墓】;納骨棺と石碑が基本要素

もとは、埋葬した死体を見えなくするための土盛り(塚)を意味することばである。現在では、一般に遺骨を埋葬する「納骨棺」(納骨室;カロート)とその上に立つ「石碑」(石塔)のことをいう。

墓に石を使う風習は古代縄文時代からあった。死者の霊を封じ込めて生者に災いを及ぼさないように死体に石を抱かせたり、埋葬した上に石を置いたのである。 

のちに仏教が伝わると、仏塔(ストゥーパ)信仰の影響を受けて納骨棺の上に仏塔を模した石碑を建てるようになった。平安時代に始まり現在でも使う「五輪塔型」の墓がそれである。

それに対して最もポピュラーな「角(かく)石塔(せきとう)型」の石碑は、儒教で神(先祖の霊)の依り代とされた「位牌」を模したものであろうといわれている。

「五輪塔型」・・・台石の上に方形、円形、三角形、半月形、団形の五つの石塔を下から積み上げたものである。万物の構成要素という地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)の五つの要素(五大(ごだい)という)を象徴している。各々に佉(きゃ)・訶(か)・羅(ら)・縛(ば)・阿(あ)の梵字を刻み阿の字の下に戒名が記される。
また、宗派によっては上から南・無・阿弥・陀・仏(浄土系)や妙・法・蓮・華・経(日蓮系)、空・風・火・水・地(禅系)と五輪に刻まれる。

【卒塔婆(そとうば)】;墓の後ろに立てる供養の板塔

浄土真宗以外では「卒塔婆」を立てて埋葬時や年忌法要、お盆、お彼岸などに供養するという習が一般に行われている。

サンスクリット語の“ストゥーパ”を音訳したもので、もともとはインドで土饅頭型に盛り上げた墓のことであった。

それがしだいに「仏舎利」(釈尊の遺骨)をまつる「塔」を意味するようになった。

釈尊の遺骨は最初は八等分され、インド各地の八基の仏塔に安置された。

その後、紀元前3世紀のなかごろ、マウリア王朝のアショーカ王が仏塔から舎利を取り出し、8万4千に分骨して新たに仏塔をつくったという。

在家の仏教信者は、この仏塔を釈尊自身として礼拝するようになり、そこから大乗仏教が興起したともいわれている。したがってもともと大乗仏教では「塔」に対する信仰が非常に強い。

一般には「卒塔婆」は「塔婆」と略してよばれ、故人の追善のために立てる長い木の板をさして使われいる。これは「板塔婆」といわれるもので本来は本物の塔を建てて仏を供養するところを、かんたんな木の板を塔にみたてて、その代わりとするものだという。

板塔婆をよく見ると上部に刻み目が入っている。これは五輪塔になぞらえものである。

【合(ごう) 祀(し)】;複数の遺骨をいっしょに納める。

一つの墓に複数の故人をいっしょにまつることを「合祀」、正確には「一基合祀」という。昔は墓石というのは一基一霊が原則で死者が出るたびにつくるものだった。最近では、家族の遺骨をいっしょに納める一基合祀がふつうになっている。

合祀墓の墓石の正面に彫る文字は「〇〇家之墓」「〇〇家先祖代々之墓」「〇〇家先祖累代之墓」といったものが多い。

また、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」といった名号や題目などを彫ったり、「倶会一処(くえいっしょ)」というような経典の句を彫ることもある。

「倶会一処」というのは「阿弥陀経」にあることばで、死後はみな阿弥陀仏の浄土で出会うという意味である。

【比翼(ひよく)塚(づか)】;夫婦いっしょに納まる墓

合祀の墓の一つに「比翼塚」といわれる墓がある。「夫婦墓」ともいわれ夫婦で一基の墓に納まるものである。

夫婦の一方が死亡したとき、配偶者もいっしょに戒名(法名)を刻んでおき、その部分を朱で赤く塗っておく。そして本人が死亡したとき、朱色を落とし元に戻すか、黒色に塗りかえることも行われている。

【逆修(ぎゃくしゅう)墓(ぼ)】;生前に建てる墓

生前中に墓を建てることは古くから行われている。これお「逆修墓」という。
別に「寿(じゅ)塚(ちょう)」「寿(じゅ)陵(りょう)」「寿墓」ともよばれたいへん喜ばしいこととされている。